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ココのビジュウ

大抵の女性はビジュウ(宝石、真珠をはめこんだアクセサリー)が好き。ココは、「宝石のための宝石」が嫌いです。「万一のときに売るための宝石」も嫌いです。そして富の象徴とする宝石が嫌い。

ココは、本物よりきれいなフェイクをつくる。

1923年頃からウェスタミンスター公爵は、シャネルの関心を乞うために、両手に抱えられない花束、手に入らない贅沢な食材を籠いっぱいに届け、そこには巨大なエメラルドの原石をしのばせたり。


シャネルは、数多くの宝石から模造宝石を思いついたのです。ですが、決して安価ではなかったはず。上流夫人たちへの嘲笑が潜んでいたと思うのです。

「宝石に宝石は下品」というシャネルに踊らされた社交界。たしかに1つの本物より複数の模造のビジュウは手に入ったでしょうが。


この模造のビジュウには、ポーモン伯爵とシャネルの二人の作品があり、本物より高いという現象までも引き起こすのです。

かのウェスタミンスター公爵は、なぜにシャネルに執着したのでしょうか。

「会話はウィットに富み、セクシーで、自信にあふれ、常に自分への関心を引きつけおく賢さがあった」

この時、シャネルは40歳でした。


mama-witch さんから 「目的を持った人生は、40代からが本番」というコメントを頂戴しました。本当にそう感じられます。ただ、「ワーキング・プア」の現実が襲ってくるのも40代。40代は節目の年代。

ところで、IDとパスワードなんですが、絶対あってるハズなのに、ログインできませんでした。今日は大成功。でも、3回もエラーで、4回目でログイン成功。1月は3回で諦めちゃって、記事書きませんでした。(笑)

こんな不具合私だけなのかな?


ダリ Dali の格別な女たち

Salvador Dali's Dream of Venus: The Surrealist Funhouse from the 1939 World's Fairゴージャスな雰囲気を纏う一人の女性。誰でも一度は夢見るシーンではありませんか。こちらはダリの洋書、Salvador Dali's Dream of Venusです。

シュレリアリズムのサルバドール・ダリ。ポール・エリュアールの妻ガラと結婚し、ガラはダリの作品(ポルト・リガートの聖母など)にも登場しています。エレナ・ディミトリエヴナ・ディアコノワ(Елена Димитриевна Диаконова)は、ガラ・エリュアール(Gala Eluard Dalí ガラ・エリュアール・ダリ)と呼ばれていました。

1929年夏にダリと恋をしたガラという女性。恋多き女性の代表でもあるのですが、「悪妻」という序列には、なぜか登場していません。エリュアール、ダリと二人の妻であった「ガラ」は、常に新しい恋に、性衝動を抑えられなかったといいます。

書籍 Salvador Dali's Dream of Venus: The Surrealist Funhouse from the 1939 World's Fair より つまり、その男性の才能の開花、性の官能性などのインスピレーションを与える女性だったのではないでしょうか。欲しいものを手に入れさせてくれる「女神」なんですね。

さて、ダリの格別の女性は、ガラだけではなかったのですね。ダリをパトロンにし、デビット・ボウイの恋人でもあったアマンダ・リア。

彼女の回顧録によると、ダリは性的不能。しかも両性具有という噂があったアマンダ・リア。

奇抜なファッション、特異な顔だち、特殊な感覚と行動は、パラノイアック・クリティック(偏執狂的批判的)である狂気の天才ダリと、惹かれあって当然でしょう。

私はアマンダ・リアとは、もっとも女性的な女性だったと思っています。たくさんの恋の維持や、結婚、そしてスーパースターの座に疲れ、最後の結婚相手には、富豪のアラン・フィリップ侯爵を選んだからです。女性が結婚を決意するひとつの理由ですもんね。(笑)

PHOTO (C)Salvador Dali's Dream of Venus: The Surrealist Funhouse from the 1939 World's Fair


闘う白鳥 マイヤ・プリセツカヤ 高松宮殿下記念世界文化賞受賞 [アート&アーティスト]

1925年11月20日生のマイヤ・プリセツカヤは、来月81歳のお誕生日を迎えます。このたび、第18回 高松宮殿下記念世界文化賞 演劇・映像部門 で受賞しました。

ミハイル・フォーキンがアンナ・パヴロワ (1881年 - 1931年)のために振付けた「瀕死の白鳥」を演じ、喝采を浴びました。数千回に及ぶ「瀕死の白鳥」の振り付けは即興となります。

流れるサンサーンスの曲「白鳥」を傍に、パヴロワが演じた最初の白鳥の魂が、運命づけられた白鳥にとりつき、マイヤが踊る白鳥は、その魂が宿る生まれ変わりを、踊っているのではないでしょうか。即興は、「生まれ変わりの白鳥」であり、「もがいて、死に至る」という宿命を背負った白鳥。

瀕死の白鳥―亡命者エリアナ・パブロバの生涯
当時、彼女は冷遇されていました。ユダヤ人だったからです。
ホテルでの食事がドッグフード。

彼女の著書「闘う白鳥」のなかで、「ソヴィエト連邦共産党に対するニュルンベルク裁判はいつになったら開かれるの?」と叫びます。


今回の高松宮殿下記念世界文化賞音楽部門 受賞はスティーヴ・ライヒ。
「ホロコーストを音楽にするのは、太平洋を飲み干すようなもの。巨大すぎて不可能だと思いましたが、その場を生き延びた人たちの『言葉の旋律』がこれを可能にしてくれました」
彼のルーツもユダヤ人だったのですね。

スティーブ・ライヒの記事は友人が記事にしています。
第18回 高松宮殿下記念世界文化賞 Steve Reich
そのほかの記事
ヤド・ヴァシェム博物館ナチスの人種主義についてNuremberg Codeと弁護Holocaust

彫刻部門受賞のクリスチャン・ボルタンスキー(米国住在、ユダヤ人)の記事
MORT by クリスチャン・ボルタンスキー


「キ・カ・ヴュ・ココ」 誰かココを見た?

いきり立つ表情と身体。晩年のシャネルです。このとき、彼女は「カムバック」を決意。 1954年、カンボン通り31番地にメゾンを再びオープン。シャネル71歳でした。

このとき、40代のクリスチャン・ディオールが、画商からファッションデザイナーとしてデビューしたあとで、シャネルが「古い下着」と蔑視していたコルセットを使用したディオールのニュールックが全盛。

侮辱と喝采のカムバックです。歴史に残るスタイルを、いくつもつくり上げた彼女にも、氷河期はあったのです。


The Little Black Dress1920年に、調香師エルネスト・ボーと出会い、「寝るときに身に纏うのは・・・」というモンローが好んだ、「シャネル NO.5」が生まれました。1924年には、「小さな黒いドレス(プティット・ローブ・ノワール)」が、つぎのファッションの時代を開き、第一次世界大戦が勃発した頃、シャネルの実用的なサファリ・ジャケットが時代の要請に答えたのです。それもつかの間、フランスがヒトラーのナチスにに占領された中、シャネルは愛人のドイツ軍将校の庇護にあり、その後スイスへ亡命することになります。第2次世界大戦が勃発を機に引退したシャネルは、すでに巨万の富を手にしていたわけです。


シャネルの最初のパトロンが、ボーイ・カペル。彼の愛人は一見の価値がある。伯爵夫人らは、特徴のある帽子と生意気でシックなファッション、不遜な態度のシャネルに、陰口を囁きながらも興味をかきたてられました。

こうしてカペルをとおして、社交界の人々、芸術家たちと交流もはじまったのです。

シャネルが1913年にアパルトマンを借りた当時のパリは、モンド(社交界)とドミ・モンド(高級娼婦たち)、うらぶれた貧しい庶民らが溢れている近代都市。うらぶれた貧しい庶民のココには、高級娼婦におよぶマナーもなく、室内に閉じこもってばかりいました。


ですが、セム(Georges Goursat,French, 1863-1934)が描いた「下半身が馬」のカペルが抱きかかえるシャネルと帽子の箱のイラストは、彼女がすでに有名人として歩み始めた証拠。

ファッションに価値のあった時代は、2、3年のうちに、ココが「ノルマンディ」にチェックインし、ヴィトンの旅行鞄をあけ世話をする従僕達がいるほどに変貌したのでした。

そんな暮らしは、広島、長崎に原爆が投下され、第二次世界大戦が終焉したころ、すでに息を潜めるように暮らしていたのですが、リッツ・ホテルから小さなホテルへ、そしてローザンヌへと迷う子犬のように彷徨います。

「二十歳の顔は自然がくれたもの。三十歳の顔は、貴方の生活によって刻まれる。五十歳の顔には貴方自身の価値が現れる。」と語ったシャネル。戦争前のシャネルは、華麗な50歳で女王でした。占領下の60歳のシャネルは、「ずいぶん馬鹿なことを言ったものだ。」とつぶやきます。

そして・・・。
「私は自分が幸せだったのかどうかさえ分からない」
70代のシャネルはそういったのでした。

追記 記事とは別件です。blog「ようこそ、witch villへ」さんの8月18日の記事に、日系ブラジル人との事故による署名活動の記事が掲載されいています。関心をもってお読みいただければ幸いです。


オーヴェルニューのガブリエル プロローグ

Coco_canel_1937_cecil_beaton1911年、キュリー夫人は2度目のノーベル賞を受賞し、中国清朝が崩壊。音楽家ストラヴィンスキー、ディアギレフ、ニジンスキーらが活躍したバレエ・リュスの華やかな時代の開幕に、シャンパーニュ暴動。それでも20世紀のヴィンテージにはボランジェ1911があります。

その翌年の1912年はというと、日本は大正元年。フランスではトーキー映画が上映され、エメラルド・グリーンの葉の絡みあうなかに、女性像のメダイヨンがはめこまれたルネ・ラリックの香水瓶「シダ」という名品が誕生。

Mademoiselle_coco_chanel1923この年、競馬場のあるおしゃれな町で、カリスマ的魅力をもつ社交界の花形カペルと出会い、パトロンに成功した女性がいます。彼女は、もっとも貧しかった少女時代までの過去を恥じ、富を得ることが人生最高の幸せと信じ、見事その生涯を華やかにリッツホテルで終えました。その人こそココ・シャネル。

従業員には忠誠を、恋人には愛情を、友人には関心を求め、支配然としたシャネル。

シャネル―スタイルと人生絵のなかのシャネルは、友人でもあるマリー・ローランサンが描いたもの。ですが支払いを拒否したほど、この絵が気に入らなかったらしいのです。ココ自身がもっとも愛したシャネルを描いていないからなのでしょう。

自分と他人のギャップ。彼女ほどに、「自分自身が愛している自分」を、相手にも同じ価値観で愛してもらうことを要求する人間はほかにいないでしょうね。

「私はオーヴェルニュでまだ火が消えていない唯一の活火山よ。」
70歳のシャネルの言葉のとおりに、最後まで情熱をもって自立した女性。彼女がブルジョワジーを相手に開いた「CHANEL」は、密かな野心から始まるのでした。


道を知れ-Scivias [天地 あまつち]

Alle Schoenheit des Himmels. Die Lebensgeschichte der Hildegard von Bingen.「生き生きした光の影(umbra viventis luminis)が現れ、その光の中に様々な様相が形となって浮かび上がり輝く。炎のように言葉が彼女に伝わり、また見た物の意味付けは一瞬にしてなされ、長く、長く記憶に留まる。 また別の生ける光(Lux vivens)がその中に現れる事があるが、それを見ると苦悩や悲しみがすべて彼女から去ってしまい、気持ちが若返る。 」(Wikipedia)---これは、Visio ヴィシオという言葉で表現された神の啓示というべき幻視体験を受けた女性が、ベルギーのガンブルー修道院出身のギベール・ド・ガンブルーにあてた書簡の一文です。

1141年に、彼女自身が「Scivias (道を知れ)」で公にしたVisio(visions)は40代のとき。

彼女とは、イタリア ルネサンス時代のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452- 1519) のように音楽、自然学、病因・医療について著作を残し、皇帝、教皇らと激しく論争し宗教改革の先駆者として名を残した、ドイツのヒルデガルド・フォン・ビンゲン(1098~1179)のこと。

時は中世のヨーロッパ、その時代にふさわしい修道女でした。才能に恵まれ、神学者、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人、芸術家であり 88人目の女性作曲家でもありました。社会と断絶された教会から、後世に残る偉業をはじめたのが38歳の頃。この時代は「12世紀ルネサンス」といわれるロマネスクからゴシックへの様式変化、教会音楽の発展、学問・文学の隆盛、さらに教会改革、十字軍の遠征などの激変の時代でした。

77曲もの中世ヨーロッパの宗教曲を、彼女は「天啓のハルモニアのシンフォニエ symphoniae harmoniae celestium revelationum」と名付けていました。ですが、作曲家には男性ばかりがあげられます。ショパンやリストの時代には、女性作曲家はいないのでしょうか。

試聴:Norma Gentile HP
Recordings
ヒルデガルドのビンゲンのイラスト:Norma Gentile HP
The Illuminations
ヒルデガルドのビンゲンのポエム:Hildegard of Bingen
poems and hymns 
Links for more information on Hildegard von Bingen 
参考サイト:Hildegard von Bingen


アレッサンドラ・フェリ [アート&アーティスト]

巨匠ローラン・プティの「こうもり」は、春の公演でアレッサンドラ・フェリもベラを踊りました。ジュリエットを踊るために生まれてきたとか、ジゼル(画像)を踊るために生まれてきたなどといわれるフェリは43歳。情熱的であり、詩的であるバレエを、さらに美しく表現できるプリマ。

新国立劇場では、今月24日から「ジゼル」がはじまります。この公演ではアレッサンドラ・フェリではありませんが、今から160年前に初演されて以来、バレエのなかのバレエという「ジゼル」が楽しみです。

演技力と叙情性が豊かなアレッサンドラ・フェリは、ジゼルやジュリエットだけではなく、振り付けプティの「「恋する悪魔(Le Diable Amoureux)」で少年役を踊るなど、ひろく出演していますが、“頂点に立つ孤独”をつねに味わっているようです。周囲に同化せず、ひとときも緩まず、つねに真摯にうちこみ、感性を磨き上げつづけるフェリ。

バレエは、必ずパートナーと組みます。フェリは、「感性が共通していること」がよいパートナーの一人といいます。

バレエは出演者だけではなく、振り付け、音楽、舞台美術、衣装などと、人の奥底に潜む琴線を響かせるスタッフの力があって、観客を魅了するのです。

1760年に、 ノヴェールによってバレエ・ダクシオンについての著作が発表され、動き、音楽、装置、衣装など、すべての構成要素を一貫してテーマを表現するものとしてとらえ、バレエをひとつの芸術作品としていこうとする動きが確立していきます。

BOOK 「Aria」
2007年の公演にローラン・プティのコッペリアが公演される予定です。
フェリならうれしい。
ローラン・プティといえば、ユーゴーの「ノートルダム・ド・パリ」では、ルネ・アリオ、イヴ・サン・ローラン、モーリス・ジャールという各界一流のスタッフが揃い、ルシア・ラカッラらが上演しました。まさに、バレエ・ダクシオンではないでしょうか。

バレエの歴史は、王侯貴族の宮廷舞踊に似たもので、ルネッサンス期のイタリアで「バレエ」とよばれます。メディチ家のカタリーナがフランス王のもとに嫁ぐときに、この「バレエ」がフランス宮廷にわたりました。そして1669年にパリ・オペラ座が建設され、オペラと混在した「ポモヌ」が初演となります。1713年オペラ座バレエ学校が設立されます。1832年に初演されたマリー・タリオーニというバレリーナの「レ・シルフィード」、ジゼル、パキータ、1681年にはラ・フォンテーヌが登場し、オペラ・バレエの頃でした。こうして1870年のコッペリアは、ロマンティック・バレエとよばれるようになります。そうしてロシアに移行していき、1738年にワガノワ・バレエ・アカデミーが設立されるのです。1800年代に、演出マリウス・プティパと作曲チャイコフスキーによって眠れる森の美女、くるみ割人形、白鳥の湖の名作が生まれ、クラシック・バレエが確立されるのです。

アメリカでは1930年代からさかんになり、のちのアメリカン・バレエ・シアター、40年代にはニューヨーク・シティ・バレエの設立され、英国も同じ頃、マーゴット・フォンテインが英国バレエを育て、1956年にロイヤルバレエが確立されていくのでした。


抒情-青柳いづみこ の Rameau [アート&アーティスト]

やさしい訴え ラモー作品集ジャン=フィリップ・ラモーはオペラ「ナバラの姫君La Princesse de Navarre 」で、フランス王室作曲家の称号を得ました。器楽曲(クラヴサン曲)、宗教曲、室内カンタータ、抒情悲劇、オペラ=バレなど主要作品は多くありますが、クラヴサン曲を室内楽曲やオペラに、またオペラや室内楽曲をクラヴン曲に編曲したラモー。

ピアニストでありながら多数の著書をもつ青柳いづみこ さんは、ドビュッシーに関する著作も多く、そのドビュッシーを通じてラモーに出会ったといいます。

ラモーの「エジプト女たち」は、ジプシーの踊り(ロム)を想像する必要があるという解説がありました。青柳いづみこ さんの演奏から、私は馬車が揺れるその中で女たちがクスクス笑ったり、窓からみる景色がどんどん遠ざかるのを憂い顔で眺めたり、途中の泉で水浴しながら小躍りしている様子が浮かびます。ジプシーの生活も身も心も絶えず流れめぐるような流浪を、ピアノの音符が流れる円を描くような音色で奏でています。

ロムはよく知られているように、インド起源の流浪の民族です。インド北西部ラジャスタン地方から、ヨーロッパ全体へ広がっていく通り道となったトルコやギリシア、そして東欧からロシア、西端のスペインまで広い地域のジプシー。青柳いづみこ さんの「やさしい訴え ラモー作品集」から「エジプト女たち」を聴くことができます。

試聴  PTNA ラモー/エジプト女たち 演奏:青柳いづみこ


ペンタローネ 二日目 第一話 [アート&アーティスト]

1697年、ド・ラ・フォルス (Charlotte Rose de Caumont de la Force)というフランスの女流作家の『妖精物語"Persinette"ペルシネット』は、1637年、ミラノのジャンバッティスタ バジーレ の「ペンタローネ」にある2日目の第1話で語られている「ペトロシネッラ(バジーレ)」をもとにした物語。

さて、このパセリの意をもつ「ペトロシネッラ」という物語が、グリム童話の「ラプンツェル」ですよね。このパセリからラプンツェルに変えたのが、ドイツのシュルツ (J. C. F. Schulz) です。


バジーレの「ペテロシネッラ」では、魔女のパセリを盗んで食べた女性の子「ペトロシネッラ」は塔に幽閉されていましたが、王子とともに逃げる。魔女が追ってくるので三つのどんぐりを後ろへ投げると、コルシカ犬・ライオン・狼に変わり、最後には狼が魔女を食べてしまうというストーリ。 ド・ラ・フォルスの「ペルシネット」では、姉の恋人を奪った妹の子「ペルシネット」を、「おまえは醜いのだ」と塔に幽閉します。

さてグリム兄弟は、シュルツ版をもとにグリム版『ラプンツェル』を童話化したようです。七回も書き換えられた「グリム童話集」は、もはや口承とはいえないという批判もあるようですが。

妖精のラプンツェルを盗んで食べた女性の子「ラプンツェル」を塔に幽閉。
「Rapunzel Rapunzel Let down your hair to me.」
「ラプンツェルや、おまえの髪をたらしておくれ」
塔に行くにはラプンツェルの美しい長い髪が梯子になります。

エーレンベルク手稿というのが初版本のものです。この初版が出版されて、ほかの作者たちA・L・グリムや、フリードリヒ・リュースらから批判があがったのです。婚前交渉による妊娠がみられる一文があったからです。「ドレスが身体にあわなくなった」という部分。マリア崇拝、父権社会の特有の批判ですね。

Rapunzel (Caldecott Medal Book)そうして、1995年にコルデット賞を受賞したゼリンスキーは、フランス、ミラノ、ドイツの3国の物語を融合させた「ラプンツェル」を描きました。

イタリアルネッサンスの挿絵です。人物の姿、動き、線、色、質感が、「空気遠近法」によって描かれています。そのほかの挿絵は、こちらから。Rapunzel


ハリカルナッソスのアルテミシア [天地 あまつち]

ハリカルナッソスは、トルコのボドラムにあった古代都市。アケメネス朝ペルシアの州知事であったマウソロスはカリア国を統治し、首都をここにしたのです。

肖像画の女性は妹にして妻であったのがアルテミシア。献身的な妻を象徴するといわれています。アルテミシアは先立ったマウソロスのために、ギリシア人建築家のピフエイとサチルの設計に、スコパス、レオカル、ブリアクシス、チモフェイという4人の高名な彫刻家によってフリーズが施された、世界でもっとも美しい墓、「マウソロス霊廟」をつくったのでした。

ティッシュバイン(Johann Heinrich Tischbein)が描いたアルテミシア。
彼女が手にしているものは、マウソロスの遺灰とワイングラスです。
彼の死から2年後のこと。悲しみのうちに彼の遺灰をワインに混ぜて飲み、そのまま息絶えたといわれています。

ですが、このアルテミシアは献身的な象徴だけではないのです。

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ルルドの泉 [天地 あまつち]

川の向こう岸のマサビエルの洞窟へ渡ろうと少女は思いました。そのとき2度にわたり、突風が吹く音が聞こえるのです。その少女は、音が聞こえたマサビエルの洞窟の方に目をこらすと、光の中に白い衣装と白いベール、手には白い玉と金の鎖、足元には黄色い薔薇の女性を見ました。まさしく聖母マリアです。

彼女こそ、1858年2月11日、薪ひろいにやってきたルルド村に住む14歳の貧しい家の少女ベルナデット(ベルナデッタ)・スビルーでした。

あるとき白い貴婦人-聖母マリアは、ベルナデットに「泉の水を飲み、その水で洗いなさい。」と言いました。その場所をベルナデットが掘ってみたところ、そこから水がどんどん湧き出てきて泉になったのです。これがすべてを癒す力があるルルドの泉。本当なのでしょうか。

Saint Bernadette Soubirous
彼女は尼僧となりましたが、1879年4月16日、肺結核により35歳の若さで他界します。そしてベルナデットは、いまもその美しい姿のまま眠っています。写真は、150年前の姿のままベルナデッタ。

聖ベルナデッタ・ヌヴェール 公式ホームページ


黒マリア [天地 あまつち]

この薔薇は黒真珠といいます。黒い薔薇の種類のひとつです。その名のとおり、美しい球体の真珠に白と黒がありますが、薔薇にも白と黒があります。薔薇にまつわるお話は、以前にも「薔薇 アブラカタブラ」をそえて記しましたとおり、聖母マリアを喩える象徴です。
参考:”墻靡 そうび”を語る ”墻靡 そうび” 古代の山茨

そして、みなれた白いマリア像のほかに黒マリアがあります。

アヴェ・マリアのaveは、Evaのの倒置であって、罪深きエヴァに対して清らかなマリアとされていますが、キリストに深くかかわる三人のマリアであるマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、マリア・サロメは、聖杯を持ってフランスにやってきたなどという伝説があります。

12世紀頃、フランス各地にマリア像が発見されます。泉の底、樫の木、洞窟からですが、教会で祀っても、また元の場所へもどるという不思議な話。そして、このマリア像の特徴は「黒いマリア像」だったこと。

薔薇 黒真珠英国ではOurLadyとよばれていますが、黒いマリアの出現した各地には、「Notre-Dame ノートルダム」という名前の寺院が設営されています。パリ、アミアンをはじめ、シャルトルのノートルダム、ランスのノートルダム、バイユーのノートルダムは、線で結ぶと結ぶとおとめ座が出現するといいます。

私は、ノートルダムと聞くと、ヴィクトル・ ユーゴーの「ノートルダムのせむし男(原題 Notre-Dame de Paris)」を思い出します。 ディズニーでも、ヒロイン エスメラルダの声をデミ・ムーアが吹替えしたミュージカル・アニメがあります。ただ、せむしは差別用語にあたるらしいことを書き添えておきますね。(『せむしの子馬』という童話があったのですが、ご存知の方いらっしゃるでしょうか・・・)

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Die Verwandlung 変身抄 [美に生きる]

有名な精神分析者、シグムンド フロイドの孫、ルシアン フロイドは、現代生存中の有名な画家の一人です。画風は祖父の影響をもちろん受けて、シンボリズム風で、ショッキングなヌードを好む画家ともいえます。

その彼が描いた「ネーキッド・ポートレート2002」は、昨年のクリスティーズのオークションで、390万ポンド(約7億7千万)で落札され話題になりました。

描かれたのは、これまでココ・マドモアゼルとしてつとめていたケイト・モスのマタニティ時代。


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お伽の樵の入神の一撃 [アート&アーティスト]

リチャード・ダッドの「お伽の樵の入神の一撃」のディティールです。ダッドは自らの手で、狂気の一撃を父親にむけたあとの作品です。

中東旅行に同行したあと、彼はエジプトの神オシリスに魅入られたのです。いいえ、きっと彼の描く美しく幻想的な絵なのかもしれません。異界を描く画家は、異界に住む神に支配され、この世を過すための魂を、すっかり取り上げられたのです。

破壊された精神のあとに描いた「お伽の樵の入神の一撃」は、息を潜めなければならないような、ちいさなちいさな50cmほどのキャンバスに、妖精の世界を詰め込んでいます。

フェアリー・フェラーの神技この世界幻想文学大賞短篇部門受賞作『フェアリー・フェラーの神技』は、狂気の妖精 画家リチャード・ダッドの「お伽の樵の入神の一撃」が表紙になっています。

マーク・チャドボーンが描いたこの物語は、リチャード・ダッドの絵に魅せられたダニーが、画家の人生をたどる旅に出かけます。ダッドの狂気に向かった旅をたどる早熟な天才ダニーの旅。やはり、この少年をも狂気に導くのでしょうか。


さて、物語の少年だけではありません。クイーンのフレディ・マーキュリーもその一人。ここから「フェアリー・フェラーの神技」という名曲が生まれたのです。そして、作家マーク・チャドボーンもでしょうね。

それではディティールだけではなく、全体の画像をお見せしたいと思います。
どうぞ狂気に導かれない方だけご覧ください。

Richard Dadd 「The Fairy Feller's Master Stroke」 1855-64; Oil on canvas

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マネのオマージュ モネの草上の昼食 [アート&アーティスト]

ダダイズムでは、パロディとして風刺スタイルに使われ、著名な作品がつぎつぎポスターなどにリメイクされます。

Coca-Cola
Manetとj. seward johnson. jr
パロディー 草上の昼食 Bow Wow Wow
マネのオマージュ セザンヌ 草上の昼食

オマージュとはフランス語で、献辞や賛辞をあらわします。マネの草上の朝食は、当時の画家たちにセンセーショナルを巻き起こし、次々と「草上の朝食」が描かれました。ブータン、セザンヌ、そしてモネも。

このモネの「草上の朝食」はディティールです。1865年に「草上の朝食のための習作」としてパラソルをもつ女性と男性の散歩のシーンが描かれています。モネは、マネの作品を当時のピクニックスタイルとして描きました。画家のバジール、アルベール・ランブロン・デ・ピルティエール、後に妻となるカミーユ・ドンシューが描かれているそうです。


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