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「キ・カ・ヴュ・ココ」 誰かココを見た?

いきり立つ表情と身体。晩年のシャネルです。このとき、彼女は「カムバック」を決意。 1954年、カンボン通り31番地にメゾンを再びオープン。シャネル71歳でした。

このとき、40代のクリスチャン・ディオールが、画商からファッションデザイナーとしてデビューしたあとで、シャネルが「古い下着」と蔑視していたコルセットを使用したディオールのニュールックが全盛。

侮辱と喝采のカムバックです。歴史に残るスタイルを、いくつもつくり上げた彼女にも、氷河期はあったのです。


The Little Black Dress1920年に、調香師エルネスト・ボーと出会い、「寝るときに身に纏うのは・・・」というモンローが好んだ、「シャネル NO.5」が生まれました。1924年には、「小さな黒いドレス(プティット・ローブ・ノワール)」が、つぎのファッションの時代を開き、第一次世界大戦が勃発した頃、シャネルの実用的なサファリ・ジャケットが時代の要請に答えたのです。それもつかの間、フランスがヒトラーのナチスにに占領された中、シャネルは愛人のドイツ軍将校の庇護にあり、その後スイスへ亡命することになります。第2次世界大戦が勃発を機に引退したシャネルは、すでに巨万の富を手にしていたわけです。


シャネルの最初のパトロンが、ボーイ・カペル。彼の愛人は一見の価値がある。伯爵夫人らは、特徴のある帽子と生意気でシックなファッション、不遜な態度のシャネルに、陰口を囁きながらも興味をかきたてられました。

こうしてカペルをとおして、社交界の人々、芸術家たちと交流もはじまったのです。

シャネルが1913年にアパルトマンを借りた当時のパリは、モンド(社交界)とドミ・モンド(高級娼婦たち)、うらぶれた貧しい庶民らが溢れている近代都市。うらぶれた貧しい庶民のココには、高級娼婦におよぶマナーもなく、室内に閉じこもってばかりいました。


ですが、セム(Georges Goursat,French, 1863-1934)が描いた「下半身が馬」のカペルが抱きかかえるシャネルと帽子の箱のイラストは、彼女がすでに有名人として歩み始めた証拠。

ファッションに価値のあった時代は、2、3年のうちに、ココが「ノルマンディ」にチェックインし、ヴィトンの旅行鞄をあけ世話をする従僕達がいるほどに変貌したのでした。

そんな暮らしは、広島、長崎に原爆が投下され、第二次世界大戦が終焉したころ、すでに息を潜めるように暮らしていたのですが、リッツ・ホテルから小さなホテルへ、そしてローザンヌへと迷う子犬のように彷徨います。

「二十歳の顔は自然がくれたもの。三十歳の顔は、貴方の生活によって刻まれる。五十歳の顔には貴方自身の価値が現れる。」と語ったシャネル。戦争前のシャネルは、華麗な50歳で女王でした。占領下の60歳のシャネルは、「ずいぶん馬鹿なことを言ったものだ。」とつぶやきます。

そして・・・。
「私は自分が幸せだったのかどうかさえ分からない」
70代のシャネルはそういったのでした。

追記 記事とは別件です。blog「ようこそ、witch villへ」さんの8月18日の記事に、日系ブラジル人との事故による署名活動の記事が掲載されいています。関心をもってお読みいただければ幸いです。


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コメント 6

魚月見砂

いろいろな逸話があり、有名人でもあり、いろいろな言葉や行動が
残っているにもかかわらず、私にとっては、シャネルはなぞめいた
どんなイメージを持ってよいか迷うような人、そういう印象があります。
気が強く、70を過ぎても、若い自分の部下に、自分のおしりはまだ張りががる
と触らせて見せたというシャネル。
強さと弱さ、どんな他人の判定もすぐに否定されそうな、そんな
不思議な人です。最後まで、どう思っていたのだろうと思わせられます。
by 魚月見砂 (2006-08-25 10:33) 

「自分が幸せだったのかどうかさえ分からない」
深みを感じる言葉ですね。。。
by (2006-08-25 23:14) 

mama-witch

この前の記事に出ていたニジンスキー。彼の生涯もまた凄まじいものがあって。狂人となるまでの数々の名演、特に「牧神の午後」を観たくて、ずいぶん古いバレエ映画やビデオを探しまくったものです。もちろんありませんでしたが。
 このシャネルの生涯を拝見していて、私が30代後半に展示会のお手伝いをした「セリーヌ」ブランドの、マダム・セリーヌを思い出してしまいました。とても素敵な、かくしゃくとしたおバアちゃまで・・・。彼女が初めてデザインした日本の着物を、大小の和紙と鍛鉄の燭台で、逆にアールデコ風にショーアップした、私の光のディスプレイを見て、「トレビアン!」と喜んでくださったのです。懐かしい昔話ですけれど。”美しいもの”を創りだす喜びは、何ものにも換えがたいのですが、男性が牛耳る日本の現場はそういうものをなかなか受け入れてくれず、まずは予算が第一。長い間胸に暖めていた、手漉き和紙と、職人に創らせるシンプルな鍛鉄の燭台による光のディスプレイ、という、とてもお金のかかる冒険を許してくれたマダム・セリーヌに、今でも感謝しています。ココ・シャネルに「美の冒険」を許してくれたカペルのような人に、私も若いころ出会いたかったなぁ(笑)
by mama-witch (2006-08-28 07:59) 

fu-

pinさん、ご無沙汰です。
>不思議な人です。最後まで、どう思っていたのだろうと思わせられます。
そうですね。PINさんのコメントに、「どんなイメージを持ってよいか迷うような人」とあります。fu-は、ふと、人間性を指していらっしゃるのかと思いました。

その人間性に、ひっかかりがあって、「不思議な人」、「迷うような人」という印象があるのでしょうか。とてもPINさんの感性が高いと思います。

人間に美徳と悪徳があるとして、普通なら「悪徳」の部分をオブラートに包みますよね。シャネルの場合、美徳と悪徳の両方を、突きつけている気がします。

でも、会ったことがないので(笑)、真実わかりませんが、「不思議な人」、「迷うような人」と感じております。
by fu- (2006-10-19 23:20) 

fu-

gon さん、こんばんわ。

>「自分が幸せだったのかどうかさえ分からない」
深みを感じる言葉ですね。。。

この頃、私自身も、このシャネルの言葉が、響いてくるのですよ。(笑)
シャネルにとって、「富みを得る」ことこそ、人生最大の望みだったと思うんですね。それを30代から得ることができて、果ては「巨万」がつくようになったとき、「愛」、「友情」という、ヒューマンな絆を持てる人が、周囲に何人いたのかな?と思うんです。

シャネルの対極に、ローン地獄や貧しいとか、ただ収入が少ない人々がいますよね。同じように僅かな年収でも、その暮らしぶりや人となりが違ってきますよね。お金に苦しむ感覚も。収入が少なくとも、それなりの暮らしを楽しむ知恵があれば、良い人生を送れると思うんですね。前者のローン地獄や貧しさという人たちと比べて。

シャネルは、富みさえあれば幸せになれる、救われるという感覚があったと思うんです。そうなると、年齢を重ねたときに、ふと自分が手に入れたものは何だったのか、なぁんて思ったのではないでしょうか。そのとき、彼女の人生哲学が、彼女自身にとっての真実とは何かを示し、GONさんのおっしゃる「深みを感じる言葉」が生まれたのですね。

人間、ある時期に、「自分が幸せだったのかどうかさえ分からない」と思う日があると、私も覚悟しております。(笑)
by fu- (2006-10-19 23:34) 

fu-

mama-witchさん、こんばんわ。
マダム・セリーヌのショーをマネジメント、コーディネートなさったとは、驚きと憧れですよ!すごい!

>手漉き和紙と、職人に創らせるシンプルな鍛鉄の燭台による光のディスプレイ
これは、ファッションや芸術に携わる人なら、魅力を感じるプロデュースではないでしょうか。

>「牧神の午後」
これは、未見なのですよ。バレエをなさってる方が、白鳥の湖などの、有名で人気のあるキャスティングに選ばれたいと思っていたところ、牧神の午後で、最初の頃は地味だなぁと感じたそうです。ですが、これほど名作があるだろうかと!
DVD、なかったんですね。外国のタイトルで探すとあるかも。

>ココ・シャネルに「美の冒険」を許してくれたカペルのような人
考えたんですけど、中年、熟年、高齢となっても、女性は女性ですよね。
もしかしたら来年、カペルのような人に出会えるかも。その時、きっと遅かったなんて思いませんよね。(笑)うれしい!って、思うのでは。いつまでも、そういう気持ち(出会い)への探究心を持っていれば、幸運な出会いはいつでもやってくる可能性があると信じていますよ、私。
by fu- (2006-10-19 23:50) 

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